1992年のことだからもう14年前の話です。
「自分を見る」というセミナーで体験した「鎮圧の開放」です。
自分が自分の心の中を見ると言う内観があります。
生まれてから今までに自分に起きた出来事を見つめるものです。
現在の心の病を過去の人生の中に原因を見つけようと言うものです。
たいてい見つかりますね。
幼い頃の両親への思いや肉体的、精神的な苦痛がほとんどですから。
成人してその現象を見つめて幼い自分が癒されることで開放される。
ところが頭の中では整理されたはずなのに・・・
何故かモヤモヤが吹っ切れていないことが多いようです。
それは鎮圧されたエネルギーです。
辛かった、我慢した時の作った握りこぶし。
この握りこぶしの吐け口が閉ざされたままになってるんですね。
例えば・・・
子供の頃妹にふざけて肩を軽くポンと叩いた。
ところが妹は「何すんのよ!」と強く叩き返した。
「あ!こんなに強く叩いてないよ」と二回叩き返す。
そうすると妹も負けずに三回叩き返してきた。
その時母親が「何やってるの?」と中断してしまった。
「あ!僕一回損してる」と言ってももう終結してしまった。
考えてみれば最初に手を出した僕が悪いんだけど・・・。
「でも一回分損してるな〜何とかならんかな〜」
頭では理解してるんだけど我慢の吐け口がいまだにない。
この鎮圧はエネルギーになって体の中に留まっているようです。
これを吐き出すことが鎮圧の開放と言われるものです。
恨み辛みすべて開放することで後に引きずることが無くなります。
やってる時はとても辛かった。
それは肉体的・精神的に「もういいよ」って言いたくなるくらい
自分自身を納得させることですから。
でもやって良かった。
憎んだ人も抱きつきたくなるくらい大好きになるんですね。
それが例え殺したいと思うくらい憎い人であってもです。
すべてが許せるんですね。
すべての存在がいとおしくなるんです。
木や草とテレパシーのようにお話できたのは
その数日後でした。
たった一日だったけどね。
すべてとつながると言うか、すべては一つと言うか
すべては自分の事のように思えてくるんですね。
感じるって言うほうが正しいのかもしれないけど。
どんな事にも許せるって難しいね。
木や草は「許すとか許さない」なんて無いみたいです。
「あるがまま」なんだって。
これが自然なんだろうね。
自然って神の領域なんだと思う。