小説の下書きです(56)

演説を終えた稔と幸夫は国連事務総長室へ招待された。事務総長から感謝の言葉をもらって今後の活動方法について協力以来があった。国連では国際支援団の活動を前もって準備していたようです。


国際支援団の設立理念を世界中に浸透することと同時に世界中の企業や研究機関の協力を得るために力を注いで欲しいということだった。稔も幸夫も出来る限り協力することを約束した。


二人はその日はゆっくり体を休め翌朝ニューヨークを飛び立ち東京羽田に向けて帰国の途に就いた。
羽田に到着してロビーに出るとたくさんのカメラが二人を待っていた。二人が国連で演説したというニュースが世界中に流れていたのだ。


二人は報道陣の中に連れて行かれ記者会見コーナーがすでに設置されていた。およそ30分のあいだ多くの質問に答えて二人は解放された。


「幸夫さん、ビックリしましたね」「そうだよな、まさかこんな大騒ぎになるなんて。疲れたよ」「僕も疲れました」


稔は両親が迎えに来ていた。「あ!お父さん、お母さんもありがとう」「お帰り、ご苦労さん」「幸夫さんご苦労様でした。ありがとうございました」「稔君もご苦労様、じゃあね」全員それぞれの家に帰って行った。


一週間後国連が国際支援団の設立を正式に発表した。
世界中の企業と大学や一般研究機関などに技術や資源の提供を呼びかけた。
日本ではテレビや新聞で参加希望の企業や研究機関が紹介され、日に日に参加希望者も増えていった。


経営不振の中小企業が息を吹き返したように活気付いていた。大学や専門学校を卒業して就職先が見つからなかった若者もインターネットを活用して参加仲間を募っていた。
そして稔と幸夫は各地で講演を依頼されて土日は休日返上で講演会に行った。


インターネットの掲示板ではいつもの仲間に加えて多くの賛同者が意見交換していた。
異論反論はなく国際支援団が順調に活動できるために何をすれば良いかという話題が多かった。
仲間たちは「提案書どおりに行きそうだね」と確信をもって話していた。


掲示板の中に興味のある質問があった。
「わたしは稔君のフアンです♪皆さんの意見交換を見ていつも思っていたことがあります。歳の差があるのになぜ同じ志を持って国連まで行けたのですか?」
その質問に興味のある答えが書かれた。
「私も同じような経験があります、それは生まれる前にやるべきことを決めた仲間が居るってことです。生まれる順番は違うけど約束をした仲間が自然と集まったんでしょうね」
これらのコメントには多くの「いいね」が贈られた。